理解と記憶は紙一重
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近頃、考えていることがあります。
それは、理解と記憶(知識化)には本質的な差はないのではないか、ということです。
世の中の多くの人は、知識を覚えるのではなく、本質的な理解、深い理解が大事だと口を揃えていいます。勉強を出来る人の方が、むしろこういうことを言う傾向がある気すらします。
しかし、本質的な理解、深い理解というのは、結構抽象的なものです。
どうやって本当に理解していると判断するのでしょうか。それは、簡単に判断できることでしょうか。
例えば、自分が理解していると感じたら理解したことになるのでしょうか。
それとも、他人が、あなたは理解しているね、と認めてくれたら理解していることになるのでしょうか。
(ちなみに、理解したかというのは実際上、本当に分かりづらいものなので、人に説明して納得してもらうことができるか(またはそれができそうか)という基準で判断してもらうように指導しています)
このような抽象的な言葉については、皆さんそれぞれがある程度のイメージを持って、理解(?)しているのだと思うのですが、少なくとも僕は深い理解、本質的な理解という概念と、正確な記憶、知識または自分が使いこなすことのできる記憶、知識という概念は、ほとんど同じように思います。
僕と同じような考え方の人をあまり知らないので、おそらくこれは少数説な気がします。多くの人は、知識を蓄えることに意味はない、理解こそが大切だと言っていると感じます。
しかし、たとえば、ある事項について理解できないと感じているとき、違う角度からの説明をきくことで、それを理解した気になるということはみなさん経験したことがあるかと思います(ある問題も、他の問題集の解説を見たらよくわかった、解けるようになった。他の先生の解説を聴いたら理解できた)。
これは、別の形の知識を覚えることで、ある知識とのつながりが生じ、より正確な知識として記憶が定着したものと見ることができるのではないでしょうか。
結局、新たな知識を理解するには、既知の知識と結びつけていく必要があるのであって(そのために授業では新たな概念を教えるときに豊富な具体例を引用したり、既習事項との結び付きを示したりすることがある、というわけです)、ある知識とその他の知識が網の目のようにリンクし合うことで、その記憶を引き出す確実性や速度が上昇し、理解という実感につながるのではないでしょうか。
さらに、ひらめきというのも、既知の知識と未知の知識との関連性の発見なのであって、思考とは既知の知識を使い、新たな問題に対処しようとする営みであるのではないでしょうか。
そうだとすれば、知識軽視というのは、そもそも思考の基礎を軽視するものであって、結局は思考の精度や速さを鈍らせてしまうのではないかと思います。
よく言われる知識偏重の弊害というのは、記憶すべき知識の取捨選択がうまくいっていないことが原因だと考えられます(受験の話でいえば、信頼性の高い合格者による適切な情報を得ることによって改善できる点です)
そして、理解不足や問題解決ができない、遅い、といった問題は、実際のところ、正確な記憶、知識化が出来ていないところに原因があるのであって、本質的な理解とか、深い理解といった言葉の本当の意味(なのかは争いがあるところかと思いますが、少なくとも本記事で僕がそう考えているもの、つまり正確かつ利用可能性の高い記憶、知識化)を誤って捉えた結果、不正確かつ利用可能性の低い記憶、知識ばかりが集積され、思考の基礎が揺らぐのではないかと考えています。
そうだとすれば、受験や資格試験について大切なことが本質的な理解や深い理解だといってしまうと、むしろ目的達成との関係で遠回りの勉強になってしまうおそれすらあり、要求される知識を分析し(過去問分析、情報収集)、必要な知識を絞り、その知識を理解し(僕は、理解というのは、知識の意義を把握するという文脈で捉えています。そして、記憶をするためには複数回の記憶をするというより、当該知識について複数回の理解をするという方が適切だと思います)、その知識を、正確かつ利用可能性の高い状態で保持する記憶を行うこと、そしてそのような記憶を土台として、これまた記憶されたパターン(パターン化の弊害とも言われますが、処理手順というとあまり語感は悪くありません。要するに、パターン化という言葉は単にイメージが悪いということなのですが、パターン化の弊害というのは、なぜそのパターン(処理手順)に従うか、など必要な周辺知識を分析したうえで、それを正確に記憶していないために生じるものです。つまり、知識や記憶の重要性を軽視し、不正確不十分な記憶をしているから、不適切な場面でパターンを用いたり、柔軟な対応ができなくなるのです)や既存の類似知識等を駆使して、問題を解決できることになります。
まとめると、理解と記憶、知識には大した差はなく、知識をいかに正確に記憶し、利用可能性の高い状態にするか、しかもその知識が自分の実現したい目標達成に役立つものであるか、という点に気を配るといいのではないか、ということです。
とりとめもなく書いたせいで稚拙な文章となってしまいましたので、後日この記事についてはもっと分かりやすく加筆修正したいと思います。
今回は、知識ではなく理解こそが大事、覚えることより考えることが大事だと、それこそ定型的に言われがちであるところ、むしろこのような言葉をあえて疑ってみました。
正直、自分の頭で考えるとか、本質的な理解とか、もっともらしいことを言っているようにきこえます(多分、こういうもっともらしいことをいうひとは学者などに多い気がするのですが、おそらく理解力と記憶力が相当高いのだと思います)が、あまりに曖昧な観念であるせいで間違った方向へ努力してしまう人がいるのではないかと思い、この記事を書きました。
何かしらの参考になればと思います。
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